本日の訪問者
51
累計
1,064,464
地域の紹介
土屋地区は、東西約3.6q、南北に約3.2qの方形状の区域で、面積は平塚市の約十分の一。東西に向って標高80〜120mの里山や丘陵に挟まれた谷間が走っており、南側は小高い山々が連なり、春秋の季節は遠藤原から土屋一帯を望む小高い山々の景色は、小波を打っているように見え、また格別な味わいがあります。
平安時代末期には、土屋三郎宗遠がこの地を治め、治承4年(1180年)には、源頼朝に従い、石橋山の旗挙げに参戦しています。宗遠は源平合戦での活躍から、地頭職に任命され、頼朝・頼家・実朝と源氏三代の将軍に仕えました。
また、土屋は、鎌倉時代の惣領制のなごりが地区名となっています。土屋を大きく四つに分けて、上惣領(矢沢)、惣領分(琵琶を含む)、大庶子分(庶子分・小熊・遠藤原)、大寺分(寺分・早田・人増)となっています。惣領制の名残といえる地名が、いまも残っているのは全国的にもきわめてめずらしいといわれています。これを「土屋三分」といいます。
横穴古墳や古寺、古社などが点在する土屋は、律令制の時代から集落として栄えており、古道や坂道の途中には、いにしえを物語る数多くの石仏や道祖神がたたずんでいます。
平安時代末期には、土屋三郎宗遠がこの地を治め、治承4年(1180年)には、源頼朝に従い、石橋山の旗挙げに参戦しています。宗遠は源平合戦での活躍から、地頭職に任命され、頼朝・頼家・実朝と源氏三代の将軍に仕えました。
また、土屋は、鎌倉時代の惣領制のなごりが地区名となっています。土屋を大きく四つに分けて、上惣領(矢沢)、惣領分(琵琶を含む)、大庶子分(庶子分・小熊・遠藤原)、大寺分(寺分・早田・人増)となっています。惣領制の名残といえる地名が、いまも残っているのは全国的にもきわめてめずらしいといわれています。これを「土屋三分」といいます。
横穴古墳や古寺、古社などが点在する土屋は、律令制の時代から集落として栄えており、古道や坂道の途中には、いにしえを物語る数多くの石仏や道祖神がたたずんでいます。
投稿記事の分類
- 土屋の "旬" な話題
- スケジュール
- ふるさと土屋マップ(特集B)
- 土屋小学校・土屋小PTA
- 土屋公民館
- (旧)土屋小PTA
- 土屋幼稚園
- 自治会
- 土子連
- 土沢地区社会福祉協議会
- 平塚市交通安全協会土屋支部
- びわ青少年の家
- 七国荘
- 平塚消防第17分団
- 高齢者よろず相談センターひらつかにし
- 里山をよみがえらせる会
- 土沢中学校・土沢中PTA
- 地域の団体・ボランティア情報
- サークル情報
- 防犯・防災・交番情報
- 特集@土屋の四季 花鳥風月
- 特集Aふるさと土屋思い出写真館
- 特集C土屋三郎宗遠
- 特集D鎌倉武士のくらし小学生版土屋三郎
- 特集E「いろはかるた」めぐり
- 土沢地区教育力ネットワーク協議会
- ざる菊の里 つちや
- 回覧
- HP事務局
- ざる菊園(土屋小学校入口 交差点前)
- 土屋小学校150周年
- その他
■二次元コードを携帯電話で読み込んで、表示されるURLを押して下さい。
■通信にかかる費用は、ご利用者のご負担となります。
■通信にかかる費用は、ご利用者のご負担となります。
リンク
事務局専用ページ
新着記事
- 2025/11/17 ざる菊園 R7.11.17 PM02:10
- 2025/11/15 ざる菊園 R7.11.15 AM11:30
- 2025/11/14 【土屋小学校】5年米作り体験 精米
- 2025/11/13 ざる菊園 R7.11.13 AM11:00
- 2025/11/11 土屋公民館だよりR7・11月号を発行しました。
- 2025/11/11 ざる菊園 R7.11.11 PM01:00
- 2025/11/09 平塚消防第17分団だより「本日は119の日です」
- 2025/11/08 ざる菊園 R7.11.08 AM11:30
- 2025/11/07 【土屋小学校】たてわり班活動
- 2025/11/06 つちや菊花展・ざる菊園に市長・教育長がいらっしゃいました!
2022/06/15 16:28:32
2022/06/14 13:21:08
2022/06/13 18:18:58
2022/06/13 15:51:23
|
6月12日放送の「鎌倉殿の13人」 第23回「狩りと獲物」では、富士の巻狩と、曽我兄弟の仇討が描かれました。
笠懸や流鏑馬が実戦用の矢を使用しないのに対し、巻き狩りは実際に獲物を射つ狩りです。射手に選ばれる御家人は、頼朝からとても信頼されている武士だけでした。 吾妻鏡によると、1193年3月25日の武蔵国入間野での追鳥狩の際に土屋兵衛尉義清が二十二人の射手の一人として選ばれています。弓を持たずに馬に乗って走り回り、動物を追い出すだけの役目の御家人が多数いた中で、射手になるということは、土屋兵衛尉義清が頼朝から信頼されている証であり、義清の弓馬の技術は、将軍の目にとまるほど優れていたと考えられます。 富士野の巻狩にも土屋義清の名が載っているため、今回の巻狩のシーンの中に土屋義清もいたと考えられます。 曽我兄弟の仇討は、土屋氏とは直接の関わりはありませんが、土屋氏の親戚筋であると言われており、平塚市ともゆかりがあるので少し紹介します。 曽我兄弟の祖父は伊藤祐親であり、祐親の妻は中村宗平(土屋三郎の父)の娘とされているため、曽我兄弟は土屋三郎の妹の孫にあたると考えられます。 吾妻鏡では、平塚市とゆかりの深い虎女(兄十郎の思い人)が取り調べを受けたが無罪放免されたことや十郎の菩提を弔うため出家したことも記されています。また、詳しい記述はありませんが、この事件のすぐあとに岡崎四郎義実が出家しているため、何かしら事件に関わっていたのではという説もあります。 土屋三郎宗遠19 吾妻鏡に見る土屋氏4 土屋三郎宗遠20 吾妻鏡に見る土屋氏5 鎌倉武士のくらし 小学生版 土屋三郎宗遠10 御家人のおつとめ 鎌倉武士のくらし 小学生版 土屋三郎宗遠11 続 御家人のおつとめ 鎌倉武士のくらし 小学生版 土屋三郎宗遠12 弓馬の達人土屋義清〜曾我兄弟の仇討ち ■五雲亭貞秀 画「富士の裾野巻狩之圖」 ■歌川国久 画「源頼朝公富士裾野牧狩之圖」 鎌倉殿と土屋氏K「屋島・壇之浦の戦い」 広報ひらつかで「鎌倉殿と平塚の七人」が特集 真田与一と岡崎四郎の史跡をめぐる(新緑のハイキング) | |
[土屋公民館]
2022/06/10 15:28:53








