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地域の紹介
田村は平塚市の北東部・相模川沿いに位置し、西に富士・箱根・丹沢・大山を望む風光明媚な地域です。又、南北に国道129号が通り、自動車販売店・大型電器店・大規模商業施設等で賑わっています。古くは、田村通り大山道、八王子往還の継立場として繁盛し、更に「田村の渡し場」があり、交通・物流の要所として栄えていました。無形文化財の田村囃子と印場踊りや、鎌倉武将・三浦義村館跡等の旧跡もあります。明治22年に神田村となり、昭和31年に平塚市と合併し自治会活動、福祉活動、その他各種団体の地域活動も盛んです。地区には平塚市の聖苑(火葬場)があり市民生活に役立っています。
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[田村の文化と歴史]
2014/01/29 14:01:17
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半僧坊
妙楽寺の境内に半僧坊が祀られている。明治27年(1894)2月に本寺の建長寺から勧請したと伝えられている。この半僧坊は、静岡県浜松市北区引佐町奥山にある方広寺の別名で、開山の聖鑑国師(無文)が中国から帰国途上難破の憂き目にあった際に守護したとされる神である。海難防除、火伏のご利益があると信仰された。この信仰の講を奥山講と云い、毎月17日の月次祭、3月17日・9月17日に大祭が行われたと云われる。当時の盛んな信仰を偲ぶものとして、大天狗・小天狗寄付名石(明治37年)、天狗の団扇(明治33年)、鳥居の根巻(明治28年)、奉納塔(明治28年)があり、特に漁師からの信仰が篤く、大磯二宮の人たちの名が刻まれている。また、神田村の人はもちろんのこと、大野村、金田村、土沢村、豊田村、岡崎村、金目村、城島村、須馬村、平塚町、相川村、大田村、伊勢原町、成瀬村、南毛利村、有馬村、寒川村、松林村、新磯村などの広範囲の崇敬者の名前が見える。妙楽寺には、江戸時代の寛文年間火災にあった際、異相の者(半僧坊)が現れ、寺を火難から守ったと云う「数珠懸松(ゆるぎの松)」の話が残されている。 (平井記 山口) |
神田公民館長の田村の地を訪ねる29(田村のだんご焼きと道祖神)
[田村の文化と歴史]
2013/12/26 17:31:12
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田村のだんご焼きと道祖神
だんご焼きの行事は、セエトバライ・ドンド焼き、左義長と呼ばれている正月の行事である。1月14日朝(1月13日夕方)米の粉で団子を作ってカシ、ケヤキ、エノキ、ヤナギなど枝ぶりのよい木にさし、歳(とし)神(がみ)の前や仏壇などに供えた。夕方に正月のお飾りや門松、書初めなどを集めて道祖神のところで燃やした。その火で団子を焼いて食べた。この団子を食べると風邪をひかないとか、むし歯の薬になる。また、門松の燃え残りを持ち帰って門口に置くと魔除けになるという言伝えがあった。昔は、12月8日に一つ目小僧が各家の一年の厄を書き綴ったノートを道祖神に預け、1月15日にそのノートを取りに来る。そのため前日の14日に道祖神小屋ごと焼き払って、難を逃れるんだと云われた。田村のだんご焼きは、それぞれの道祖神ごとに行われていたが、平成16年から上町、中町、下町が一緒になって相模川の河川敷でだんご焼きが行われている。今年は、1月18日(土)13時から15時頃に予定されている。 道祖神は、道陸神(どうろくじん)、塞(さえ)の神と呼ばれ、辻、村境に祀られ悪霊をさえぎる神として信仰され、旅行安全、防疫、縁結び、子どもの神としても崇敬された。田村には、道祖神が八か所に祀られている。その内、「奉造立道禄神 施主一山孤輪信男 享保四己亥天十二月吉日」と刻む、同じ型の道祖神が鹿見堂の路傍と天獏宮境内、常安寺境内と三体存在する。 (平井記 山口) |
[田村の文化と歴史]
2013/11/25 16:31:20
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円光院と弁財天
円光院は、八坂神社の北西側に明治の初めまで存在していた寺である。山号を南向山と称する真言宗の寺院で八坂神社の別当であった。明治元年に時の政府によって神仏分離政策が出され、さらに廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)運動が展開する中で、円光院は、横内の智正院(ちしょういん)と大神の観音寺に合併され、さらに、神田寺(横内)と改称され円光院は廃寺となった。墓石は、田村下町にある常勝寺と横内の神田寺に移された。その際に円光院の弁財天は、横宿の八田家に安置されるようになった。 円光院の本尊の不動明王は、寒川一之宮の不動堂の本尊になったものかとも思われるが・・・。「新編相模国風土記稿」によると、この弁財天は、空海(弘法大師)が江の島で護摩(ごま)を焚(た)いて作ったと記されている。表面は、19座の神仏が表され、縦25p横20pの大きさで、裏面は、手形になって、「□□七月七日於江ノ島□□ 秘密護摩□□海 一万座奉修行 以其炭此形□□者也」とある。 (平井記 山口) | |
[神田公民館]
2013/11/24 13:16:15
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現在、地元田村でも埋もれていく地域の歴史や伝統文化の伝承がむずかしくなっています。神田公民館では、延長サークルでもある神田郷土史研究会のみなさんと連携し、地元の良さを認識し、郷土愛を醸成したい思いから、地域資源を守り活かす活動を進めています。
今回田村の史跡を実際に歩き、地域の魅力を再発見するため、今年で4回目となる「田村の史跡を訪ねて」を開催しました。秋晴れの中、みんなで史跡を歩きながら参加者同士の交流の機会ともなりました。 【日時】11月24日(日) 9時30分〜12時40分 【行程】神田公民館→神田中学校→田村用水→六兵衛土手 →社宮神の跡→東照宮(権現社)→猿田彦大神(道祖神) →地蔵堂→神田寺→五輪塔(道祖神)→観音巡拝塔(道標) →御霊神社→大山道→八町耕地→神田公民館 【参加】18名 【講師】平井神田公民館長 【共催】神田郷土史研究会 (山口) |
[田村の文化と歴史]
2013/10/31 9:54:34
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田村の庚申講と庚申塔 田村地区には、四基の庚申塔がある。八坂神社境内にある寛政12年(1800)のものが一番古く、青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が刻まれている。この庚申塔は、昭和40年頃までは、田村十字路の十王堂のところに祀られていた。駒返橋のところの庚申塔も以前は常勝寺の前にあり、天獏宮(てんばくぐう)の庚申塔も以前は南よりの厚木道沿いにあった。これらの庚申塔は、諸事情により動かされてきたようである。昔は、十干十二支の組合せによる庚申の日の晩に庚申講が行われた。現在、田村では、上町の植竹のみで庚申講が行われている。植竹の庚申塔は、農協の前にある。天保12年のもので自然石に庚申塔とはっきりと彫られている。庚申講で宿になった家では、青面金剛像の掛け軸を掲げ、お膳を供えて祀って豊作や福運を祈った。寝てしまうと、体内の三尸虫(さんしちゅう)が逃げ出して、天帝にその人の罪を告げると云われ、虫が逃げないように寝ないで徹夜する習俗があった。植竹の庚申講は最近では数軒の人たちが集まって、近くの飲食店で飲食しながら過ごすようである。昔は、一晩を眠らずに飲食をしながら話をして過ごしたと云われる。今でも、「長い話はお庚申の晩にしろ」という言葉が残っている。庚申塔は、60年目の庚申の年に築かれたと云う。田村の庚申塔の内、三基は江戸時代の天保年間であり、この頃が田村地域の庚申信仰の最盛期であったと思われる。 (平井記 山口) |









