わたしの田村

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    地域の紹介

    相州大山道田村渡の景一勇斎(歌川)国芳作〜現在の神川橋と相模川から西を望む
    田村は平塚市の北東部・相模川沿いに位置し、西に富士・箱根・丹沢・大山を望む風光明媚な地域です。又、南北に国道129号が通り、自動車販売店・大型電器店・大規模商業施設等で賑わっています。古くは、田村通り大山道、八王子往還の継立場として繁盛し、更に「田村の渡し場」があり、交通・物流の要所として栄えていました。無形文化財の田村囃子と印場踊りや、鎌倉武将・三浦義村館跡等の旧跡もあります。明治22年に神田村となり、昭和31年に平塚市と合併し自治会活動、福祉活動、その他各種団体の地域活動も盛んです。地区には平塚市の聖苑(火葬場)があり市民生活に役立っています。

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    神田公民館長の田村の地を訪ねる27(田村通り大山道と道標)

    [田村の文化と歴史]

    2013/09/30 11:53:36
    八坂神社境内の道標
    十王堂跡の道標.
     田村通り大山道と道標
     
      田村通り大山道は、東海道の藤沢の四谷から寒川の一之宮を経由して相模川の「田村の渡し」を舟で渡り、現在の田村十字路を右折して、田村茶屋町(井筒屋前)を通り、臼井菓子屋の前を左折し、神田小学校を右に見て、129号線を横断、横内を経由して大山に至る参詣道を云う。大山信仰は、五穀豊穣、招福除災、商売繁盛にご利益があるとされ、農民、漁民、各種職人、商人、芸人たちが大山の石尊権現や不動明王に参拝した。江戸時代の宝暦年間には20万人もの参詣人があり大いににぎわったと云われ、田村の茶屋町の旅籠や茶店も栄え、夜間の参詣人が騒がしく眠りを妨げられたと云う。田村には、道標が二箇所ある。一つは、八坂神社境内にある寛政5年(1793)のもので「左大山道 右江之嶋みち 左いやまみち」と刻まれ、裏側には、田村の俳人山口素旬の俳句が記されている。この道標は、昔は臼井菓子屋の横にあったものと云われている。もう一つは、十王堂跡のところに宝暦9年(1759)のものがある「右 大山みち 右 大いそ道 左不じさ王 江のしま 加満くらミち」と刻まれている道標がある。昭和38年頃には、八坂神社にある不動明王像がここにあり、この道標の上に載っていたものと思われる。大山道は、県内に数多くの道があり、それに伴って大山道の道標が各地に残っている。
     (平井記 山口)

    神田公民館の田村の地を訪ねる25(真土騒動と田村)

    [田村の文化と歴史]

    2013/08/23 17:27:41
    大正7年頃の茶屋町(郵便局の隣が松屋)
    地券
     真土騒動と田村
     
      明治政府により、土地制度・税制上の大改革である地租改正(1873年〜1881年)が実施され、土地の所有と売買を認め地券が発行された。その地券をめぐる争いが、田村の隣村の真土村に於いて、持ち上がった。真土村の村民たちは、戸長の松木長右衛門を明治9年に横浜裁判所に提訴し、一審は勝訴したが、二審の上等裁判所では敗訴した。今の最高裁判所にあたる大審院へ提訴したくも費用がなく、勝訴した長右衛門から多額な請求もあり、「長右衛門憎し」の思いが強くなり、万やむなしとして、長右衛門を襲撃する計画が立てられた。
     田村は、この真土騒動(松木騒動)に二三の点でかかわっている。被告と原告の調停場所として、明治9年12月に、二回にわたり田村茶屋町の旅籠兼茶店の「松屋」と田村十字路の湘南信金の所にあった旅籠兼料亭の「門蔦屋」が利用された。さらに、「妙楽寺」に戸長役場が置かれていた関係で、長右衛門自らが、事件の当日に弟の縁組の籍の書類を妙楽寺の役場に取りに来た。その後に「松屋」に立ち寄り酒を飲んだと云う。帰り道に長右衛門の襲撃を計画したが、未遂に終わり、その夜(明治11年10月26日)に松木家に討ち入り、松木長右衛門を始め7人を殺害、放火し26人が逮捕された。その内、首謀者4人が死刑、22人に懲役刑の判決が下された。それに対し、減刑運動がおこり、中心的な役割を果たした人物が、田村の戸長の福島治兵衛氏(巴屋の当主)で、大住郡・淘綾郡・愛甲郡に広く嘆願書の署名を募り、減刑、赦免に奔走されたと云われる。 (平井記 山口)

    神田公民館長の田村の地を訪ねる24(六兵衛土手)

    [田村の文化と歴史]

    2013/07/30 14:12:13
    六兵衛土手
    東照宮(権現社)
     
      六兵衛土手
     
      田村と大神の村境、横内の玉川に架かる北野橋までに土手が存在していた。この土手を六兵衛土手と称した。現在は、神田幼稚園の西側から新幹線のガード辺りまで遺構が残っている。案内版が、けやき公園(田村4丁目)にある。
     徳川家康の馬の口取りであった作兵衛(作右衛門)が生国に帰る途中、横内に住む幼なじみの法春を訪ねた縁により、定住することになったと云う。横内の領主榊原氏が家康に作兵衛の話をしたところ、作兵衛に「何か願いごとはないか。」と問われたと云う。そこで、毎年大水が出て難渋しているので、「大神との境に土手を築きたい」旨を願い出た。三日間の内に土手を完成する条件により、村人総出で築造をしたと云われる。横内の字樋口の堰番していた六兵衛の名から、六兵衛土手と呼んだと伝えられる。なお、家康の恩に報いるため、横内の上の東庭に東照宮(権現社)を祀っている。
     (平井記 山口)

    神田公民館長の田村の地を訪ねる23(関東大震災と神田村)

    [田村の文化と歴史]

    2013/07/01 16:30:26
    大正14年八坂神社拝殿上棟式(茂田明家所蔵)
    神田小学校大正15年卒業生 完成間もない玄関前(神田小 「神田のあゆみ」より)
     
      関東大震災と神田村
     
      大正12年(1923年)9月1日11時58分に相模湾北西沖を震源としたマグニチュード7.9の規模の「関東大震災」が起き、千葉県から静岡県までの範囲で死者行方不明者105,385人、全壊家屋128,266戸という日本災害史上最大級の被害をもたらした。
     神田村の被害は、戸数466(446)戸の内450(427)戸が倒壊し、死者30人、負傷64人というありさまであった。中でも村の母屋倒壊率は、97.8(95.8)%で、神奈川県下では最も被害が甚大であった。神田村で倒壊を免れた家は3軒、若しくは4軒と伝えられる。神田村の未曾有の被害は、集落が相模川の自然堤防上に立地し、地質と地盤が軟弱であり、液状化によるものかと思われる。当時は、農業を生活基盤とする村であり、収入源は、米・麦・養蚕であったが、収穫は皆無で蚕室の被害も隣村の相川村に続く損害であった。お年寄りの話によると、「朝鮮人が襲撃に来る。すでに、溝向(字名)に竹やりを持って集まっている。津波が相模川を遡って押し寄せる」という流言蜚語(りゅうげんひご)(=デマ)が村人を恐れさせたと云う。神田村の復旧・復興は、村人の献身的な努力により迅速な食糧支援が行われたり、村債を集めたり、農業に欠かすことが出来ない用水、排水の工事が耕地整理組合の号令のもと、自力再建がなされた。大神・吉際は、大正15年に、東西田村も昭和2年に耕地整理が完了した。生活道路であった厚木道(八王子往還)も2週間後には復旧し、小学校や商店も早くから再開されたようである。 (平井記 山口)

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