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地域の紹介
田村は平塚市の北東部・相模川沿いに位置し、西に富士・箱根・丹沢・大山を望む風光明媚な地域です。又、南北に国道129号が通り、自動車販売店・大型電器店・大規模商業施設等で賑わっています。古くは、田村通り大山道、八王子往還の継立場として繁盛し、更に「田村の渡し場」があり、交通・物流の要所として栄えていました。無形文化財の田村囃子と印場踊りや、鎌倉武将・三浦義村館跡等の旧跡もあります。明治22年に神田村となり、昭和31年に平塚市と合併し自治会活動、福祉活動、その他各種団体の地域活動も盛んです。地区には平塚市の聖苑(火葬場)があり市民生活に役立っています。
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[田村の文化と歴史]
2014/06/30 8:17:05
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公民館館長の田村の地を訪ねる35【忠 魂 碑】 天獏宮の境内の中に、西南戦争の戦死者から、日清戦争、日露戦争、日支事変(日中戦争)、大東亜戦争(太平洋戦争)で、祖国のために殉じた神田村の戦死者140余柱、戦災犠牲者8柱が祀られている慰霊碑がある。忠魂碑の揮毫の筆者は乃木希典である。この忠魂碑は、神田小学校の校庭に明治45年(1912)建立されたが、昭和21年(1946)に当時の神田村村長の石川重昌氏により現在地に移されたと云う。小学校の敷地内に置かれたのは、教育的意図があったのではないかと思われる。しかし、太平洋戦争で敗北すると、GHQの指示で撤去されることになり、小学校から天獏宮の境内に移されたものと考えられる。その後、昭和62年2月28日に忠魂碑の修復がなされたようで、修復委員会の石碑が建てられている。 毎年、慰霊祭が関係者の手により行われている。 左の写真から忠魂碑・忠魂碑裏面・修復記念碑 (記 平井) |
[田村の文化と歴史]
2014/05/26 8:35:38
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田村の地を訪ねる34 【神 田 保 育 園】 神田保育園は、昭和30年9月に神田村託児所として小学校の講堂を借りて村内の子どもを保育したことに始まる、定員が60人のところ倍の園児が入所したので大変だったようである。昭和31年(1956)5月に神田村の村立保育所として開設され、初代の園長は、神田村村長の大橋正義が兼務した。当初は、幼稚園として建設が計画されたが、村の建設財源と公費補助の関係により、社会福祉施設の保育所に変更された。運営上、最初は幼稚園としての保育時間、保育料が適用されたと云われる。昭和31年9月平塚市と合併により、平塚市立神田保育所と改名された。この保育所は平塚市一号の施設である。現在の園児定員は95名であるが多いときは122名に及んだこともあったようである。保母さんは20名ほどで保育にあたっている。園児は、神田地域はむろんのこと、保護者の仕事の関係上、市外の二宮、伊勢原の広範囲からも通園している。 左の写真から現在の神田保育園、中の写真は創設当初の神田村保育所、右の写真は昭和31年建設の神田村保育所の園舎 (平井) |
[田村の文化と歴史]
2014/05/15 9:10:35
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田村の地を訪ねる○33【神 田 中 学 校】
昭和22年4月30日に神田村立神田中学校として開校された。当初は、神田小学校の五教室が利用されたが、昭和23年12月に現在の相模小学校の地に第一校舎が建設された。神田村が、昭和31年9月に平塚市と合併すると、平塚市立神田中学校と改称された。その後、昭和51年に現在の地に新築移転がなされた。初代の校長は、中丸寿郎氏、二代目は、大神の小泉正夫氏であった。昭和22年の卒業生は45名、最多の卒業生は、昭和57年の489名であった。生徒数の増加と横内団地ができたことにより、昭和60年4月に平塚市立横内中学校が分離開校された。26年4月現在の生徒数は409名、学級数は14クラス、教職員数は40名で構成されている。 左の写真より、現在の神田中学校・昭和34年当時の中学校・昭和23年の中学校校舎竣工記念写真 (記 平井) |
[田村の文化と歴史]
2014/04/24 22:50:43
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田村の地を訪ねる○32【神 田 公 民 館】
昭和33年(1958)平塚市三番目の公民館として、神田村役場の二階事務所に開設される。初代の館長に平塚市役所神田支所の支所長であった木村一雄氏(妙楽寺住職)が就任された。この頃は、一年交代で支所長が館長を兼務していた。二代目には、藤本市郎氏(村役場の収入役)、三代目には、伊勢原の南蓮寺の住職でもあった福田寛有氏が務められた。昭和36年(1961)からは神田小学校の校長や郵便局長を歴任された茂田登氏が神田公民館長として昭和49年まで務められた。現在の自治会館の敷地が寄付され、その間の昭和40年4月7日に神田公民館が落成した。昭和48年9月20日には、全国公民館連合会から表彰もされ栄誉に浴した。公民館の写真等では、茂田登氏が神田公民館の初代になっているが実際は四代目である。昭和49年五代目の館長は、大神の沖津キヨ氏で、この年、横内公民館が分離独立した。昭和50年には、創立10周年記念式典が挙行された。6代館長落合福次氏、7代館長には青木 永氏が就任され、昭和60年3月16日に創立20周年記念式典が行われ、記念誌が発刊された。8代目館長の吉本孝之氏の平成元年に大神公民館が分離独立した。平成3年3月に現在地に神田公民館・北図書館が落成し、建設祝賀会が挙行された。その後、9代八田静明氏、10代丸若和栄氏、11代吉川功氏、12代小泉長治氏、13代平井晃氏(現)が公民館長を務めている。現公民館は、図書館、体育館、市民窓口センターを有する複合館で、年間の利用者は、65,195人、利用団体は、150サークルもあり、地域のよりどころになっている。(左の写真 現神田公民館、中は旧神田公民館 現自治会館、右は、26年3月の公民館まつり)(平井) |
[田村の文化と歴史]
2014/03/10 11:42:13
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覚厳上人と猪脵家の小幅
豪雨があると相模川の堤が決壊して耕地や村落が水浸しになり、村人は難儀をした。天文19年(1550)の大水では、妙楽寺の鐘楼が流された。田村は、昔から大水に見舞われ、江戸時代から、明治、大正、昭和にかけて、台風や大雨の度に被害を被った。 常勝寺の住職の覚厳上人は、文化8年(1811)に村人の難儀を見兼ねて洪水の除災を祈願するため自ら穴を掘り入定したと伝えられる。入定塚(にゅうじょうづか)は、寺の東方、相模川堤防付近にあったと云う。 覚厳上人は、入定する前に村人に梵字の小幅を残した。この梵字は、阿閦(アシュク)で、意味は無動・不動と訳す。覚厳の盤石の心境を梵字に託したものと思われる。現在、梵字の小幅は、上郷の猪脵家に伝わっている。 供養塔に「過去よりも現世未来も夢の跡 めざめて拝む明日の夜の月」という神秘的な和歌一首が残されている。 (平井記 山口) |



