わたしの田村

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    地域の紹介

    相州大山道田村渡の景一勇斎(歌川)国芳作〜現在の神川橋と相模川から西を望む
    田村は平塚市の北東部・相模川沿いに位置し、西に富士・箱根・丹沢・大山を望む風光明媚な地域です。又、南北に国道129号が通り、自動車販売店・大型電器店・大規模商業施設等で賑わっています。古くは、田村通り大山道、八王子往還の継立場として繁盛し、更に「田村の渡し場」があり、交通・物流の要所として栄えていました。無形文化財の田村囃子と印場踊りや、鎌倉武将・三浦義村館跡等の旧跡もあります。明治22年に神田村となり、昭和31年に平塚市と合併し自治会活動、福祉活動、その他各種団体の地域活動も盛んです。地区には平塚市の聖苑(火葬場)があり市民生活に役立っています。

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    田村から大神の史跡を訪ねて

    [神田公民館]

    2014/11/24 18:07:42
    田村から大神の史跡を訪ねて1  
     11月24日に総勢29名で大神の史跡を巡りました。神田公民館からスタートして公民館に戻る行程で実施しました。知られていない社宮神(しゃぐうじん)の石祠(せきし)や市内では他に例がない番場の祝言像と呼ばれる道祖神、市内最大の庚申塔、珍しい孕(はら)み観音、市内唯一の如意輪観音血盆経塔(にょいりんかんのんけつぼんきょうとう)などを見学しました。また、岩崎家の大神の絵地図で陣屋の跡、高札場(こうさつば)跡などを確認しました。正安寺では、本堂でお茶いただきながら、明和4年(1767)の涅槃像(ねはんぞう)を見せていだき、帰りにはお菓子まで頂戴し大変恐縮いたしました。予定より20分ほど遅くなりましたが、天候にも恵まれ楽しく史跡散策ができました。   (平 井)

    田村地区 行事スケジュール 平成26年11月〜平成27年4月

    [田村地区年間スケジュール]

    2014/11/01 9:15:01
    田村地区 行事スケジュール

    平成26年11月〜平成27年4月の田村地区の行事スケジュールをUPしました。
    スケジュールは最新のもので確認下さい。

    確定になると枠に囲まれます。
    ※枠に囲まれていない行事は未定です。

    例年の日程を曜日重視で予定としてのせています。
    行事修正・確定の場合は、HP顧問の福島昌保090-5343-2853まで連絡下さい。(重田)
    9317_B.pdf予定表H26 11-4.pdf

    公民館長の田村の地を訪ねる 39 道半地遺跡

    [田村の文化と歴史]

    2014/10/26 16:22:08
    公民館長の田村の地を訪ねる 39【道半地(どうはんち)遺跡】
     道半地遺跡は、昭和52年から平成3年にかけて田村1丁目周辺の調査発掘がされる中、田村字道半地(神奈川三菱ふそう)で古墳時代後期から中世にわたる複合遺跡が確認された。本遺跡は5地点10回の発掘調査が行われ、土師器(はじき)、須恵器(すえき)、灰釉(かいゆう)陶器、緑釉陶器皿、朱墨が付着した転用硯などが出土している。また竪穴住居跡・掘立柱建物跡・井戸跡が発見されている。南方3キロの四之宮地域には、相模国府域が展開する。その国府域遺跡と本遺跡の間には大量の緑釉陶器を出土した遺跡があるところからすると、道半地遺跡は、国府関連遺跡とも考えられる。また、下級役人たちが住んでいた集落が存在したのではないかと思われるが・・・
    他の田村の遺跡には、奈良時代から平安時代にかけての田村天神前遺跡、弥生時代中期後半から近世にかけての田村館跡がある。田村天神前遺跡からは、竪穴住居跡11か所が発見され、出土した土器類を参考にすると、7世紀前半に集落が形成されて、10世紀初め頃まで集落が営まれたと考えられている。また、水利・生産遺跡として一町畑遺跡、七反地遺跡、原沢遺跡、長者窪遺跡などが確認されている。下の写真は、公民館に展示されているもの。左二枚の道半地のものは、8月まで展示されていた。現在は、緑釉陶器類を展示中。
    (平 井)

    田村の地を訪ねる38 相模川と鮎漁

    [田村の文化と歴史]

    2014/09/30 17:45:46
    公民館長の田村の地を訪ねる38  【相模川と鮎漁】
     相模川は、全長109キロメートル、上流では桂川、下流では馬入川と称され、古代より物資の運搬に利用された。古老の話によると帆かけ船(高瀬船)が南風により万帆風をはらんで遡上する光景が遠くからも見えたと云う。神川橋の下流の巽川原(字名)に「田村の渡し」の舟渡しがあり、田村は大山道や中原道の宿場として賑わったと伝えられている。明治14年の「皇国地誌―田村地誌」によると「産物ハ愛甲郡厚木町ニ運輸シ鮎ハ武蔵國南多摩郡八王子駅ニ販鬻(はんいく)ス」とあり、鮎が売られていたことがわかる。田村付近では、鮎釣りをする人たちが多かった。寒川の取水堰が昭和39年に建設され、県営上水道などの取水が始まると、中洲もなくなり絶好の鮎釣り場(コロガシをやる所)も消えてしまった。現在、神川橋の下流で鮎釣りの人をたまに見かける程度で、大半の人たちは相模原市の田名あたりか、酒匂川などに行って鮎釣りを楽しむようである。堰の下には、流れに押しもどされた鮎などの魚がたまり、コサキ゛などの魚をとる鳥が集まり、その鳥をねらう大勢のアマチュアカメラマンたちを見かける。当時の鮎釣りは、友釣りは少なく長い竿にイカリのような針を使ったカケド(コロガシ)と云う漁が大半であった。鮎の仲買の人が茅ヶ崎や厚木から来て買付をしていた。また、田村の「松屋」でも買付をしていた。相模川では遊船も行われ、河原でバーべキューを楽しむ人々も見られた。捕った鮎は、炭火で焼いてベンケイに刺して乾して正月料理の鮎の昆布巻として食されたりした。左の写真から昭和30年頃の鮎漁(カケド)、三八(サンバ)舟(落合晋一家所蔵)ベンケイで鮎を乾す(平井蔵)(平 井)

    公民館長の田村の地を訪ねる 37 神川橋

    [田村の文化と歴史]

    2014/08/30 17:52:47

    公民館館長の田村の地を訪ねる 37【神 川 橋】
     
    神川橋は、平塚市と寒川町を結ぶ県道伊勢原藤沢線の相模川に架けられている橋で、橋の名前は、神田村の「神」と寒川町の「川」からとったものである。かっては、神川橋の200メートル余り下流、巽川原(字名)に「田村の渡し」があり、その様子は「相模国風土記稿」や国芳、広重の「浮世絵」に見ることができる。橋が出来るまでは、渡し船が利用された。最初に橋が架けられたのは明治19年であったと云われる。神輿が相模川を渡る下の写真は、昭和13年(1938)6月に木橋として架橋されたと橋に書かれている。二人のご婦人が写っている写真は、昭和16年(1941)のもので、渡し船と木橋に当時の様子が窺える。一之宮(寒川町)と田村には、渡し船と木橋が架けられていたが、風水害のたびに損壊していた。そのため県に恒久的な橋をと云う陳情が数回され、昭和28年8月7日にコンクリート製の神川橋が竣工し、神奈川県知事内山岩太郎を迎えて開通式を行い、また三代による渡り初めが行われた。
    木橋を渡る神輿は、茂田雪江さん、竣工記念の写真は、金子貞子さんと高橋よしこさんからの提供。昭和16年の渡し船と木橋は「図録さむかわ」より、渡り初めの写真は、公民館20周年記念誌より掲載。(記 平井)

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