わたしの田村

  •  
    田村地区の情報を発信します!
    本日の訪問者
    14
    累計
    1,023,261

    地域の紹介

    相州大山道田村渡の景一勇斎(歌川)国芳作〜現在の神川橋と相模川から西を望む
    田村は平塚市の北東部・相模川沿いに位置し、西に富士・箱根・丹沢・大山を望む風光明媚な地域です。又、南北に国道129号が通り、自動車販売店・大型電器店・大規模商業施設等で賑わっています。古くは、田村通り大山道、八王子往還の継立場として繁盛し、更に「田村の渡し場」があり、交通・物流の要所として栄えていました。無形文化財の田村囃子と印場踊りや、鎌倉武将・三浦義村館跡等の旧跡もあります。明治22年に神田村となり、昭和31年に平塚市と合併し自治会活動、福祉活動、その他各種団体の地域活動も盛んです。地区には平塚市の聖苑(火葬場)があり市民生活に役立っています。

    投稿記事を検索

    << 2026 / 5 >>
                 





    1 2
    3 4 5 6 7 8 9
    10 11 12 13 14 15 16
    17 18 19 20 21 22 23
    24 25 26 27 28 29 30
    31





    月 

    携帯アクセス
    ■二次元コードを携帯電話で読み込んで、表示されるURLを押して下さい。

    ■通信にかかる費用は、ご利用者のご負担となります。
     

    読者登録

    メールアドレスを登録すると、この ページの更新情報が届きます。

    事務局専用ページ

    神田公民館長の田村の地を訪ねる23(関東大震災と神田村)

    [田村の文化と歴史]

    2013/07/01 16:30:26
    大正14年八坂神社拝殿上棟式(茂田明家所蔵)
    神田小学校大正15年卒業生 完成間もない玄関前(神田小 「神田のあゆみ」より)
     
      関東大震災と神田村
     
      大正12年(1923年)9月1日11時58分に相模湾北西沖を震源としたマグニチュード7.9の規模の「関東大震災」が起き、千葉県から静岡県までの範囲で死者行方不明者105,385人、全壊家屋128,266戸という日本災害史上最大級の被害をもたらした。
     神田村の被害は、戸数466(446)戸の内450(427)戸が倒壊し、死者30人、負傷64人というありさまであった。中でも村の母屋倒壊率は、97.8(95.8)%で、神奈川県下では最も被害が甚大であった。神田村で倒壊を免れた家は3軒、若しくは4軒と伝えられる。神田村の未曾有の被害は、集落が相模川の自然堤防上に立地し、地質と地盤が軟弱であり、液状化によるものかと思われる。当時は、農業を生活基盤とする村であり、収入源は、米・麦・養蚕であったが、収穫は皆無で蚕室の被害も隣村の相川村に続く損害であった。お年寄りの話によると、「朝鮮人が襲撃に来る。すでに、溝向(字名)に竹やりを持って集まっている。津波が相模川を遡って押し寄せる」という流言蜚語(りゅうげんひご)(=デマ)が村人を恐れさせたと云う。神田村の復旧・復興は、村人の献身的な努力により迅速な食糧支援が行われたり、村債を集めたり、農業に欠かすことが出来ない用水、排水の工事が耕地整理組合の号令のもと、自力再建がなされた。大神・吉際は、大正15年に、東西田村も昭和2年に耕地整理が完了した。生活道路であった厚木道(八王子往還)も2週間後には復旧し、小学校や商店も早くから再開されたようである。 (平井記 山口)

    << BACK [ 876 - 880 件 / 898 件中 ] NEXT >>