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地域の紹介
田村は平塚市の北東部・相模川沿いに位置し、西に富士・箱根・丹沢・大山を望む風光明媚な地域です。又、南北に国道129号が通り、自動車販売店・大型電器店・大規模商業施設等で賑わっています。古くは、田村通り大山道、八王子往還の継立場として繁盛し、更に「田村の渡し場」があり、交通・物流の要所として栄えていました。無形文化財の田村囃子と印場踊りや、鎌倉武将・三浦義村館跡等の旧跡もあります。明治22年に神田村となり、昭和31年に平塚市と合併し自治会活動、福祉活動、その他各種団体の地域活動も盛んです。地区には平塚市の聖苑(火葬場)があり市民生活に役立っています。
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[神田公民館]
2013/11/24 13:16:15
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現在、地元田村でも埋もれていく地域の歴史や伝統文化の伝承がむずかしくなっています。神田公民館では、延長サークルでもある神田郷土史研究会のみなさんと連携し、地元の良さを認識し、郷土愛を醸成したい思いから、地域資源を守り活かす活動を進めています。
今回田村の史跡を実際に歩き、地域の魅力を再発見するため、今年で4回目となる「田村の史跡を訪ねて」を開催しました。秋晴れの中、みんなで史跡を歩きながら参加者同士の交流の機会ともなりました。 【日時】11月24日(日) 9時30分〜12時40分 【行程】神田公民館→神田中学校→田村用水→六兵衛土手 →社宮神の跡→東照宮(権現社)→猿田彦大神(道祖神) →地蔵堂→神田寺→五輪塔(道祖神)→観音巡拝塔(道標) →御霊神社→大山道→八町耕地→神田公民館 【参加】18名 【講師】平井神田公民館長 【共催】神田郷土史研究会 (山口) |
[田村の文化と歴史]
2013/10/31 9:54:34
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田村の庚申講と庚申塔 田村地区には、四基の庚申塔がある。八坂神社境内にある寛政12年(1800)のものが一番古く、青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が刻まれている。この庚申塔は、昭和40年頃までは、田村十字路の十王堂のところに祀られていた。駒返橋のところの庚申塔も以前は常勝寺の前にあり、天獏宮(てんばくぐう)の庚申塔も以前は南よりの厚木道沿いにあった。これらの庚申塔は、諸事情により動かされてきたようである。昔は、十干十二支の組合せによる庚申の日の晩に庚申講が行われた。現在、田村では、上町の植竹のみで庚申講が行われている。植竹の庚申塔は、農協の前にある。天保12年のもので自然石に庚申塔とはっきりと彫られている。庚申講で宿になった家では、青面金剛像の掛け軸を掲げ、お膳を供えて祀って豊作や福運を祈った。寝てしまうと、体内の三尸虫(さんしちゅう)が逃げ出して、天帝にその人の罪を告げると云われ、虫が逃げないように寝ないで徹夜する習俗があった。植竹の庚申講は最近では数軒の人たちが集まって、近くの飲食店で飲食しながら過ごすようである。昔は、一晩を眠らずに飲食をしながら話をして過ごしたと云われる。今でも、「長い話はお庚申の晩にしろ」という言葉が残っている。庚申塔は、60年目の庚申の年に築かれたと云う。田村の庚申塔の内、三基は江戸時代の天保年間であり、この頃が田村地域の庚申信仰の最盛期であったと思われる。 (平井記 山口) |
[田村の文化と歴史]
2013/09/30 11:53:36
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田村通り大山道と道標
田村通り大山道は、東海道の藤沢の四谷から寒川の一之宮を経由して相模川の「田村の渡し」を舟で渡り、現在の田村十字路を右折して、田村茶屋町(井筒屋前)を通り、臼井菓子屋の前を左折し、神田小学校を右に見て、129号線を横断、横内を経由して大山に至る参詣道を云う。大山信仰は、五穀豊穣、招福除災、商売繁盛にご利益があるとされ、農民、漁民、各種職人、商人、芸人たちが大山の石尊権現や不動明王に参拝した。江戸時代の宝暦年間には20万人もの参詣人があり大いににぎわったと云われ、田村の茶屋町の旅籠や茶店も栄え、夜間の参詣人が騒がしく眠りを妨げられたと云う。田村には、道標が二箇所ある。一つは、八坂神社境内にある寛政5年(1793)のもので「左大山道 右江之嶋みち 左いやまみち」と刻まれ、裏側には、田村の俳人山口素旬の俳句が記されている。この道標は、昔は臼井菓子屋の横にあったものと云われている。もう一つは、十王堂跡のところに宝暦9年(1759)のものがある「右 大山みち 右 大いそ道 左不じさ王 江のしま 加満くらミち」と刻まれている道標がある。昭和38年頃には、八坂神社にある不動明王像がここにあり、この道標の上に載っていたものと思われる。大山道は、県内に数多くの道があり、それに伴って大山道の道標が各地に残っている。 (平井記 山口) |
[田村の文化と歴史]
2013/08/23 17:27:41
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真土騒動と田村
明治政府により、土地制度・税制上の大改革である地租改正(1873年〜1881年)が実施され、土地の所有と売買を認め地券が発行された。その地券をめぐる争いが、田村の隣村の真土村に於いて、持ち上がった。真土村の村民たちは、戸長の松木長右衛門を明治9年に横浜裁判所に提訴し、一審は勝訴したが、二審の上等裁判所では敗訴した。今の最高裁判所にあたる大審院へ提訴したくも費用がなく、勝訴した長右衛門から多額な請求もあり、「長右衛門憎し」の思いが強くなり、万やむなしとして、長右衛門を襲撃する計画が立てられた。 田村は、この真土騒動(松木騒動)に二三の点でかかわっている。被告と原告の調停場所として、明治9年12月に、二回にわたり田村茶屋町の旅籠兼茶店の「松屋」と田村十字路の湘南信金の所にあった旅籠兼料亭の「門蔦屋」が利用された。さらに、「妙楽寺」に戸長役場が置かれていた関係で、長右衛門自らが、事件の当日に弟の縁組の籍の書類を妙楽寺の役場に取りに来た。その後に「松屋」に立ち寄り酒を飲んだと云う。帰り道に長右衛門の襲撃を計画したが、未遂に終わり、その夜(明治11年10月26日)に松木家に討ち入り、松木長右衛門を始め7人を殺害、放火し26人が逮捕された。その内、首謀者4人が死刑、22人に懲役刑の判決が下された。それに対し、減刑運動がおこり、中心的な役割を果たした人物が、田村の戸長の福島治兵衛氏(巴屋の当主)で、大住郡・淘綾郡・愛甲郡に広く嘆願書の署名を募り、減刑、赦免に奔走されたと云われる。 (平井記 山口) |
[田村の文化と歴史]
2013/07/30 14:12:13
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六兵衛土手 田村と大神の村境、横内の玉川に架かる北野橋までに土手が存在していた。この土手を六兵衛土手と称した。現在は、神田幼稚園の西側から新幹線のガード辺りまで遺構が残っている。案内版が、けやき公園(田村4丁目)にある。 徳川家康の馬の口取りであった作兵衛(作右衛門)が生国に帰る途中、横内に住む幼なじみの法春を訪ねた縁により、定住することになったと云う。横内の領主榊原氏が家康に作兵衛の話をしたところ、作兵衛に「何か願いごとはないか。」と問われたと云う。そこで、毎年大水が出て難渋しているので、「大神との境に土手を築きたい」旨を願い出た。三日間の内に土手を完成する条件により、村人総出で築造をしたと云われる。横内の字樋口の堰番していた六兵衛の名から、六兵衛土手と呼んだと伝えられる。なお、家康の恩に報いるため、横内の上の東庭に東照宮(権現社)を祀っている。 (平井記 山口) | |







