わたしの田村

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    地域の紹介

    相州大山道田村渡の景一勇斎(歌川)国芳作〜現在の神川橋と相模川から西を望む
    田村は平塚市の北東部・相模川沿いに位置し、西に富士・箱根・丹沢・大山を望む風光明媚な地域です。又、南北に国道129号が通り、自動車販売店・大型電器店・大規模商業施設等で賑わっています。古くは、田村通り大山道、八王子往還の継立場として繁盛し、更に「田村の渡し場」があり、交通・物流の要所として栄えていました。無形文化財の田村囃子と印場踊りや、鎌倉武将・三浦義村館跡等の旧跡もあります。明治22年に神田村となり、昭和31年に平塚市と合併し自治会活動、福祉活動、その他各種団体の地域活動も盛んです。地区には平塚市の聖苑(火葬場)があり市民生活に役立っています。

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    田村の地を訪ねる38 相模川と鮎漁

    [田村の文化と歴史]

    2014/09/30 17:45:46
    公民館長の田村の地を訪ねる38  【相模川と鮎漁】
     相模川は、全長109キロメートル、上流では桂川、下流では馬入川と称され、古代より物資の運搬に利用された。古老の話によると帆かけ船(高瀬船)が南風により万帆風をはらんで遡上する光景が遠くからも見えたと云う。神川橋の下流の巽川原(字名)に「田村の渡し」の舟渡しがあり、田村は大山道や中原道の宿場として賑わったと伝えられている。明治14年の「皇国地誌―田村地誌」によると「産物ハ愛甲郡厚木町ニ運輸シ鮎ハ武蔵國南多摩郡八王子駅ニ販鬻(はんいく)ス」とあり、鮎が売られていたことがわかる。田村付近では、鮎釣りをする人たちが多かった。寒川の取水堰が昭和39年に建設され、県営上水道などの取水が始まると、中洲もなくなり絶好の鮎釣り場(コロガシをやる所)も消えてしまった。現在、神川橋の下流で鮎釣りの人をたまに見かける程度で、大半の人たちは相模原市の田名あたりか、酒匂川などに行って鮎釣りを楽しむようである。堰の下には、流れに押しもどされた鮎などの魚がたまり、コサキ゛などの魚をとる鳥が集まり、その鳥をねらう大勢のアマチュアカメラマンたちを見かける。当時の鮎釣りは、友釣りは少なく長い竿にイカリのような針を使ったカケド(コロガシ)と云う漁が大半であった。鮎の仲買の人が茅ヶ崎や厚木から来て買付をしていた。また、田村の「松屋」でも買付をしていた。相模川では遊船も行われ、河原でバーべキューを楽しむ人々も見られた。捕った鮎は、炭火で焼いてベンケイに刺して乾して正月料理の鮎の昆布巻として食されたりした。左の写真から昭和30年頃の鮎漁(カケド)、三八(サンバ)舟(落合晋一家所蔵)ベンケイで鮎を乾す(平井蔵)(平 井)

    公民館長の田村の地を訪ねる 37 神川橋

    [田村の文化と歴史]

    2014/08/30 17:52:47

    公民館館長の田村の地を訪ねる 37【神 川 橋】
     
    神川橋は、平塚市と寒川町を結ぶ県道伊勢原藤沢線の相模川に架けられている橋で、橋の名前は、神田村の「神」と寒川町の「川」からとったものである。かっては、神川橋の200メートル余り下流、巽川原(字名)に「田村の渡し」があり、その様子は「相模国風土記稿」や国芳、広重の「浮世絵」に見ることができる。橋が出来るまでは、渡し船が利用された。最初に橋が架けられたのは明治19年であったと云われる。神輿が相模川を渡る下の写真は、昭和13年(1938)6月に木橋として架橋されたと橋に書かれている。二人のご婦人が写っている写真は、昭和16年(1941)のもので、渡し船と木橋に当時の様子が窺える。一之宮(寒川町)と田村には、渡し船と木橋が架けられていたが、風水害のたびに損壊していた。そのため県に恒久的な橋をと云う陳情が数回され、昭和28年8月7日にコンクリート製の神川橋が竣工し、神奈川県知事内山岩太郎を迎えて開通式を行い、また三代による渡り初めが行われた。
    木橋を渡る神輿は、茂田雪江さん、竣工記念の写真は、金子貞子さんと高橋よしこさんからの提供。昭和16年の渡し船と木橋は「図録さむかわ」より、渡り初めの写真は、公民館20周年記念誌より掲載。(記 平井)

    公民館館長の田村の地を訪ねる35 忠魂碑

    [田村の文化と歴史]

    2014/06/30 8:17:05
    公民館館長の田村の地を訪ねる35【忠 魂 碑】  
     天獏宮の境内の中に、西南戦争の戦死者から、日清戦争、日露戦争、日支事変(日中戦争)、大東亜戦争(太平洋戦争)で、祖国のために殉じた神田村の戦死者140余柱、戦災犠牲者8柱が祀られている慰霊碑がある。忠魂碑の揮毫の筆者は乃木希典である。この忠魂碑は、神田小学校の校庭に明治45年(1912)建立されたが、昭和21年(1946)に当時の神田村村長の石川重昌氏により現在地に移されたと云う。小学校の敷地内に置かれたのは、教育的意図があったのではないかと思われる。しかし、太平洋戦争で敗北すると、GHQの指示で撤去されることになり、小学校から天獏宮の境内に移されたものと考えられる。その後、昭和62年2月28日に忠魂碑の修復がなされたようで、修復委員会の石碑が建てられている。 毎年、慰霊祭が関係者の手により行われている。
     左の写真から忠魂碑・忠魂碑裏面・修復記念碑  (記 平井)

    神田公民館長の田村の地を訪ねる

    [田村の文化と歴史]

    2014/05/26 8:35:38
    C:\Users\akira\Pictures\2014-04-27\004.JPG C:\Users\akira\Pictures\端本・絵図、保育所\001 C:\Users\akira\Pictures\保育園・神川橋渡り初め\DSCF5274
    田村の地を訪ねる34  【神 田 保 育 園】
     神田保育園は、昭和30年9月に神田村託児所として小学校の講堂を借りて村内の子どもを保育したことに始まる、定員が60人のところ倍の園児が入所したので大変だったようである。昭和31年(1956)5月に神田村の村立保育所として開設され、初代の園長は、神田村村長の大橋正義が兼務した。当初は、幼稚園として建設が計画されたが、村の建設財源と公費補助の関係により、社会福祉施設の保育所に変更された。運営上、最初は幼稚園としての保育時間、保育料が適用されたと云われる。昭和31年9月平塚市と合併により、平塚市立神田保育所と改名された。この保育所は平塚市一号の施設である。現在の園児定員は95名であるが多いときは122名に及んだこともあったようである。保母さんは20名ほどで保育にあたっている。園児は、神田地域はむろんのこと、保護者の仕事の関係上、市外の二宮、伊勢原の広範囲からも通園している。
     左の写真から現在の神田保育園、中の写真は創設当初の神田村保育所、右の写真は昭和31年建設の神田村保育所の園舎  (平井)

    公民館館長の田村の地を訪ねる33 神田中学校

    [田村の文化と歴史]

    2014/05/15 9:10:35
    田村の地を訪ねる○33【神 田 中 学 校】
     昭和22年4月30日に神田村立神田中学校として開校された。当初は、神田小学校の五教室が利用されたが、昭和23年12月に現在の相模小学校の地に第一校舎が建設された。神田村が、昭和31年9月に平塚市と合併すると、平塚市立神田中学校と改称された。その後、昭和51年に現在の地に新築移転がなされた。初代の校長は、中丸寿郎氏、二代目は、大神の小泉正夫氏であった。昭和22年の卒業生は45名、最多の卒業生は、昭和57年の489名であった。生徒数の増加と横内団地ができたことにより、昭和60年4月に平塚市立横内中学校が分離開校された。26年4月現在の生徒数は409名、学級数は14クラス、教職員数は40名で構成されている。
     左の写真より、現在の神田中学校・昭和34年当時の中学校・昭和23年の中学校校舎竣工記念写真 
    (記 平井)

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