鎌倉武士のくらし 小学生版 土屋三郎宗遠 12 弓馬の達人土屋義清~曾我兄弟の仇討ち
2013年07月03日 10:56:58
[
特集⑤鎌倉武士のくらし小学生版土屋三郎 ]
小学生版 土屋三郎宗遠 12 弓馬の達人土屋義清~曾我兄弟の仇討ち
1193年(建久4年)3月26日 土屋兵衛尉義清、狩りの射手に選ばれる
後白河法皇の一周忌までは諸国で狩りが禁じられていましたが禁止が解けたので、将軍は下野那須野(しもつけなすの=栃木県那須地方)・信濃三原(しなのみはら=長野県三原)などの狩倉(かりくら=狩りをするための野原)を見るために出発されました。狩猟になれている人をよび集められた中で、弓馬に練達した頼朝が信頼している二十二名を選ばれて、それぞれに弓矢を持たせました。
その他の者は、たとえ一万騎いたとしても弓矢は持たせず踏馬の衆(とうばのしゅう=狩りの時に、馬を走らせ動物を追い出す役)とすると定められました。
その二十二名の中に北条義時、武田五郎信光、和田左衛門尉義盛、梶原左衛門尉景季、などそうそうたる御家人たちに肩を並べて、土屋兵衛尉義清も選ばれています。
1193(建久4年)5月8日 土屋兵衛尉義清、富士の巻き狩りに行く
将軍家(頼朝)が富士野藍沢(あいざわ=静岡県小山町)の夏狩をご覧になるために駿河の国に尉かれました。この狩は、「富士野巻き狩り」として有名です。頼朝は、この巻き狩りのために富士野に間口五間(一間=1.8m、五間=9m)の仮屋を建てて御旅館としました。
この大規模な巻き狩りには大勢の御家人が参加しましたが、その中に土屋兵衛尉義清の名があります。このころ実質的に土屋氏を代表して将軍の側近につかえていたのは義清だったと思われます。また、義清の弓馬の技術は、将軍の目にとまるほど優れていたようです。
1193(建久4年)5月28日 義清、曾我兄弟の敵討ちを知る
伊東祐親(いとうすけちか)の孫の曽我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)・同五郎時致(ごろうときむね)が父の仇、工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)を殺害しました。曾我兄弟の仇討ちとして知られる事件です。
十郎祐成は、仇討ちに成功したあと、その場で殺されてしまいましたが、五郎時致は、捕らえられて、頼朝の前で取り調べられます。そのとき、たくさんの御家人たちが、その裁きを見ようと群れ集まりました。義清もその群集の中にいたと考えられます。
1194(建久5年)11月21日 義清、千本小笠懸の射手になる
三島社の神事が行われました。頼朝は特に潔斎(けっさい=身を清めること)をして鶴岡の三島社別宮に参られました。また、御霊社の前の浜で千番の小笠懸が行われ、和田義盛がこれを奉行した。射手は二十名、武田太郎信義、三浦兵衛尉義村、足利太郎親成らにまじって、土屋兵衛尉義清がえらばれています。
※小笠懸=笠懸よりも小さな的(4寸程度=約13cm)の的を射る。射程も短くしてある。千本小笠懸は、千本これを射たようです。笠懸や流鏑馬、小笠懸が、武士ならば誰でもできるかというと、そうではないようです。やはり、長年の鍛錬(たんれん)が必要であり、騎射、馳射(はせゆみ=馬で敵に駆け寄り弓を射る)は、ある種の特殊技能だったと考えられます。
写真左 土屋義清ゆかりの寿福寺。かつて岡崎義実が建てた亀谷堂があり、義清が受け継いだ。亀谷堂では頼朝が母親の供養を行った。また、このあたりに義清の館があったとも言われている。
写真中 鶴岡八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)をする馬場
現在でも、春の神事として流鏑馬が奉納される。
写真右 鶴岡八幡宮流鏑馬神事 


コメント:
コメントフォーム