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地域の紹介
田村は平塚市の北東部・相模川沿いに位置し、西に富士・箱根・丹沢・大山を望む風光明媚な地域です。又、南北に国道129号が通り、自動車販売店・大型電器店・大規模商業施設等で賑わっています。古くは、田村通り大山道、八王子往還の継立場として繁盛し、更に「田村の渡し場」があり、交通・物流の要所として栄えていました。無形文化財の田村囃子と印場踊りや、鎌倉武将・三浦義村館跡等の旧跡もあります。明治22年に神田村となり、昭和31年に平塚市と合併し自治会活動、福祉活動、その他各種団体の地域活動も盛んです。地区には平塚市の聖苑(火葬場)があり市民生活に役立っています。
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[田村の文化と歴史]
2013/07/30 14:12:13
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六兵衛土手 田村と大神の村境、横内の玉川に架かる北野橋までに土手が存在していた。この土手を六兵衛土手と称した。現在は、神田幼稚園の西側から新幹線のガード辺りまで遺構が残っている。案内版が、けやき公園(田村4丁目)にある。 徳川家康の馬の口取りであった作兵衛(作右衛門)が生国に帰る途中、横内に住む幼なじみの法春を訪ねた縁により、定住することになったと云う。横内の領主榊原氏が家康に作兵衛の話をしたところ、作兵衛に「何か願いごとはないか。」と問われたと云う。そこで、毎年大水が出て難渋しているので、「大神との境に土手を築きたい」旨を願い出た。三日間の内に土手を完成する条件により、村人総出で築造をしたと云われる。横内の字樋口の堰番していた六兵衛の名から、六兵衛土手と呼んだと伝えられる。なお、家康の恩に報いるため、横内の上の東庭に東照宮(権現社)を祀っている。 (平井記 山口) | |
[田村の文化と歴史]
2013/07/01 16:30:26
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関東大震災と神田村 大正12年(1923年)9月1日11時58分に相模湾北西沖を震源としたマグニチュード7.9の規模の「関東大震災」が起き、千葉県から静岡県までの範囲で死者行方不明者105,385人、全壊家屋128,266戸という日本災害史上最大級の被害をもたらした。 神田村の被害は、戸数466(446)戸の内450(427)戸が倒壊し、死者30人、負傷64人というありさまであった。中でも村の母屋倒壊率は、97.8(95.8)%で、神奈川県下では最も被害が甚大であった。神田村で倒壊を免れた家は3軒、若しくは4軒と伝えられる。神田村の未曾有の被害は、集落が相模川の自然堤防上に立地し、地質と地盤が軟弱であり、液状化によるものかと思われる。当時は、農業を生活基盤とする村であり、収入源は、米・麦・養蚕であったが、収穫は皆無で蚕室の被害も隣村の相川村に続く損害であった。お年寄りの話によると、「朝鮮人が襲撃に来る。すでに、溝向(字名)に竹やりを持って集まっている。津波が相模川を遡って押し寄せる」という流言蜚語(りゅうげんひご)(=デマ)が村人を恐れさせたと云う。神田村の復旧・復興は、村人の献身的な努力により迅速な食糧支援が行われたり、村債を集めたり、農業に欠かすことが出来ない用水、排水の工事が耕地整理組合の号令のもと、自力再建がなされた。大神・吉際は、大正15年に、東西田村も昭和2年に耕地整理が完了した。生活道路であった厚木道(八王子往還)も2週間後には復旧し、小学校や商店も早くから再開されたようである。 (平井記 山口) | |
