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地域の紹介
田村は平塚市の北東部・相模川沿いに位置し、西に富士・箱根・丹沢・大山を望む風光明媚な地域です。又、南北に国道129号が通り、自動車販売店・大型電器店・大規模商業施設等で賑わっています。古くは、田村通り大山道、八王子往還の継立場として繁盛し、更に「田村の渡し場」があり、交通・物流の要所として栄えていました。無形文化財の田村囃子と印場踊りや、鎌倉武将・三浦義村館跡等の旧跡もあります。明治22年に神田村となり、昭和31年に平塚市と合併し自治会活動、福祉活動、その他各種団体の地域活動も盛んです。地区には平塚市の聖苑(火葬場)があり市民生活に役立っています。
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[田村の文化と歴史]
2014/05/15 9:10:35
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田村の地を訪ねる○33【神 田 中 学 校】
昭和22年4月30日に神田村立神田中学校として開校された。当初は、神田小学校の五教室が利用されたが、昭和23年12月に現在の相模小学校の地に第一校舎が建設された。神田村が、昭和31年9月に平塚市と合併すると、平塚市立神田中学校と改称された。その後、昭和51年に現在の地に新築移転がなされた。初代の校長は、中丸寿郎氏、二代目は、大神の小泉正夫氏であった。昭和22年の卒業生は45名、最多の卒業生は、昭和57年の489名であった。生徒数の増加と横内団地ができたことにより、昭和60年4月に平塚市立横内中学校が分離開校された。26年4月現在の生徒数は409名、学級数は14クラス、教職員数は40名で構成されている。 左の写真より、現在の神田中学校・昭和34年当時の中学校・昭和23年の中学校校舎竣工記念写真 (記 平井) |
[田村の文化と歴史]
2014/04/24 22:50:43
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田村の地を訪ねる○32【神 田 公 民 館】
昭和33年(1958)平塚市三番目の公民館として、神田村役場の二階事務所に開設される。初代の館長に平塚市役所神田支所の支所長であった木村一雄氏(妙楽寺住職)が就任された。この頃は、一年交代で支所長が館長を兼務していた。二代目には、藤本市郎氏(村役場の収入役)、三代目には、伊勢原の南蓮寺の住職でもあった福田寛有氏が務められた。昭和36年(1961)からは神田小学校の校長や郵便局長を歴任された茂田登氏が神田公民館長として昭和49年まで務められた。現在の自治会館の敷地が寄付され、その間の昭和40年4月7日に神田公民館が落成した。昭和48年9月20日には、全国公民館連合会から表彰もされ栄誉に浴した。公民館の写真等では、茂田登氏が神田公民館の初代になっているが実際は四代目である。昭和49年五代目の館長は、大神の沖津キヨ氏で、この年、横内公民館が分離独立した。昭和50年には、創立10周年記念式典が挙行された。6代館長落合福次氏、7代館長には青木 永氏が就任され、昭和60年3月16日に創立20周年記念式典が行われ、記念誌が発刊された。8代目館長の吉本孝之氏の平成元年に大神公民館が分離独立した。平成3年3月に現在地に神田公民館・北図書館が落成し、建設祝賀会が挙行された。その後、9代八田静明氏、10代丸若和栄氏、11代吉川功氏、12代小泉長治氏、13代平井晃氏(現)が公民館長を務めている。現公民館は、図書館、体育館、市民窓口センターを有する複合館で、年間の利用者は、65,195人、利用団体は、150サークルもあり、地域のよりどころになっている。(左の写真 現神田公民館、中は旧神田公民館 現自治会館、右は、26年3月の公民館まつり)(平井) |
[田村の文化と歴史]
2014/03/10 11:42:13
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覚厳上人と猪脵家の小幅
豪雨があると相模川の堤が決壊して耕地や村落が水浸しになり、村人は難儀をした。天文19年(1550)の大水では、妙楽寺の鐘楼が流された。田村は、昔から大水に見舞われ、江戸時代から、明治、大正、昭和にかけて、台風や大雨の度に被害を被った。 常勝寺の住職の覚厳上人は、文化8年(1811)に村人の難儀を見兼ねて洪水の除災を祈願するため自ら穴を掘り入定したと伝えられる。入定塚(にゅうじょうづか)は、寺の東方、相模川堤防付近にあったと云う。 覚厳上人は、入定する前に村人に梵字の小幅を残した。この梵字は、阿閦(アシュク)で、意味は無動・不動と訳す。覚厳の盤石の心境を梵字に託したものと思われる。現在、梵字の小幅は、上郷の猪脵家に伝わっている。 供養塔に「過去よりも現世未来も夢の跡 めざめて拝む明日の夜の月」という神秘的な和歌一首が残されている。 (平井記 山口) |
[田村の文化と歴史]
2014/01/29 14:01:17
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半僧坊
妙楽寺の境内に半僧坊が祀られている。明治27年(1894)2月に本寺の建長寺から勧請したと伝えられている。この半僧坊は、静岡県浜松市北区引佐町奥山にある方広寺の別名で、開山の聖鑑国師(無文)が中国から帰国途上難破の憂き目にあった際に守護したとされる神である。海難防除、火伏のご利益があると信仰された。この信仰の講を奥山講と云い、毎月17日の月次祭、3月17日・9月17日に大祭が行われたと云われる。当時の盛んな信仰を偲ぶものとして、大天狗・小天狗寄付名石(明治37年)、天狗の団扇(明治33年)、鳥居の根巻(明治28年)、奉納塔(明治28年)があり、特に漁師からの信仰が篤く、大磯二宮の人たちの名が刻まれている。また、神田村の人はもちろんのこと、大野村、金田村、土沢村、豊田村、岡崎村、金目村、城島村、須馬村、平塚町、相川村、大田村、伊勢原町、成瀬村、南毛利村、有馬村、寒川村、松林村、新磯村などの広範囲の崇敬者の名前が見える。妙楽寺には、江戸時代の寛文年間火災にあった際、異相の者(半僧坊)が現れ、寺を火難から守ったと云う「数珠懸松(ゆるぎの松)」の話が残されている。 (平井記 山口) |
神田公民館長の田村の地を訪ねる29(田村のだんご焼きと道祖神)
[田村の文化と歴史]
2013/12/26 17:31:12
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田村のだんご焼きと道祖神
だんご焼きの行事は、セエトバライ・ドンド焼き、左義長と呼ばれている正月の行事である。1月14日朝(1月13日夕方)米の粉で団子を作ってカシ、ケヤキ、エノキ、ヤナギなど枝ぶりのよい木にさし、歳(とし)神(がみ)の前や仏壇などに供えた。夕方に正月のお飾りや門松、書初めなどを集めて道祖神のところで燃やした。その火で団子を焼いて食べた。この団子を食べると風邪をひかないとか、むし歯の薬になる。また、門松の燃え残りを持ち帰って門口に置くと魔除けになるという言伝えがあった。昔は、12月8日に一つ目小僧が各家の一年の厄を書き綴ったノートを道祖神に預け、1月15日にそのノートを取りに来る。そのため前日の14日に道祖神小屋ごと焼き払って、難を逃れるんだと云われた。田村のだんご焼きは、それぞれの道祖神ごとに行われていたが、平成16年から上町、中町、下町が一緒になって相模川の河川敷でだんご焼きが行われている。今年は、1月18日(土)13時から15時頃に予定されている。 道祖神は、道陸神(どうろくじん)、塞(さえ)の神と呼ばれ、辻、村境に祀られ悪霊をさえぎる神として信仰され、旅行安全、防疫、縁結び、子どもの神としても崇敬された。田村には、道祖神が八か所に祀られている。その内、「奉造立道禄神 施主一山孤輪信男 享保四己亥天十二月吉日」と刻む、同じ型の道祖神が鹿見堂の路傍と天獏宮境内、常安寺境内と三体存在する。 (平井記 山口) |







