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地域の紹介
田村は平塚市の北東部・相模川沿いに位置し、西に富士・箱根・丹沢・大山を望む風光明媚な地域です。又、南北に国道129号が通り、自動車販売店・大型電器店・大規模商業施設等で賑わっています。古くは、田村通り大山道、八王子往還の継立場として繁盛し、更に「田村の渡し場」があり、交通・物流の要所として栄えていました。無形文化財の田村囃子と印場踊りや、鎌倉武将・三浦義村館跡等の旧跡もあります。明治22年に神田村となり、昭和31年に平塚市と合併し自治会活動、福祉活動、その他各種団体の地域活動も盛んです。地区には平塚市の聖苑(火葬場)があり市民生活に役立っています。
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[田村の文化と歴史]
2016/02/27 9:16:09
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公民館館長の田村の地を訪ねる55地押丈量地引絵図に見る「田村の小字(こあざ)」
田村には、植竹、社宮神、田中屋敷、溝向、堰場、前田、若宮、五反地、仲ノ町、長者窪、原沢、太郎丸、道面、七反面、小松原、一町畑、道半地、塚越、駒返、馬場、下川原、宮ノ前、天神前、改戸、尾崎、上川原、下田、天神下、外川原、天神裏、巽川原などの字名がある。(神田・城島地区土地宝典―昭和35年)小字とは、町村内の区画の名で、字名は、住民の生活の内から誕生した貴重なものであり、明治6年に作成された田村の「地押(じおし)丈量(じょうりょう)地引(じびき)絵図(えず)」や「田畑反別取調帳」には「町田」という小字が見える。また、八坂神社の社史にも前田・町田の米を神米としていた記述がある。しかし、学校等にある「田村旧町名保存図」には、「町田」と云う小字名の記載がなかったのでいろいろ当たって見ると。町田という字は、田村自治会館のところからヤマダ電機の5丁目あたりであることが判明した。字名も時代とともに変遷しているようである。田村の小字の地名由来は、社寺に関連した字名、「社宮神、若宮、宮ノ前、天神前、天神下、天神裏」、歴史に由来した字名、「駒返、馬場、塚越、改戸」、農業の中心である田に関連した字名、「前田、町田、五反地、一町畑、下田」、年貢の免除地に関連した字名、「道面、七反面、道半地」、開墾に関連した字名、「太郎丸、長者窪、田中屋敷、溝向、堰場、上川原、下川原、外川原、巽川原」、地形に関連した字名、「小松原、尾崎、植竹」から由来したと推測される。「地押丈量地引絵図」(右上の写真)とは、明治9年地租改正に伴い地券発行のため、地番、区画、地目などを明確にした地引絵図が作成された。現在は、平塚市立博物館に保管されている。55回の掲載をもって終わらせていただきます。ご愛読ありがとうございました。 (平井 晃) | |
[田村の文化と歴史]
2016/02/04 10:19:59
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公民館長の田村の地を訪ねる 54【田村地域の橋】 田村の江戸時代の村高は1898石で平塚市域では一番の村高であり、最大の米作地域であった。灌漑用水を得るため、江戸時代の前から「田村用水」(田村堀)が厚木の小鮎川から引かれ、水路が張り巡らされていた。ところが、田村は交通の要所で八王子往還(厚木道)、中原道、大山道が村内の中央を通っていた。そのため数多くの橋が架けられていた。徳川家康ゆかりの駒返橋や鷹落橋が八王子往還に架けられていた。「田村地誌」によると、大山道には、天神橋、堂前橋、改戸橋、若宮橋、八反橋、仲之町橋、塚田橋、獺地橋の8つの橋が架けられていたとある。そのうち獺地橋は、なんと読むのか不明である。橋の構造は石製で大半の橋の長さは1〜1.5mほどで堀割や溝、田水交通に架けられていた。昭和13年に相模川に木橋が架けられ、昭和28年にコンクリート製の神川橋が架けられた。左の写真は昭和13年の神川橋、中央の写真は38年頃の鷹落橋、右の写真は40年頃の駒返橋 (平 井) |
[田村の文化と歴史]
2015/12/29 12:46:32
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公民館長の田村の地を訪ねる 53【神田郷土いろはかるた】 毎年、公民館で1月に開催されている新年恒例のかるた大会は、今年で15回目を迎える。神田中学校区青少年健全育成連絡協議会(若樹の会)の皆さんと神田公民館の共催事業として神田公民館で神田小と相模小の子どもたちと地域の人たちが参加して実施されている。このかるた大会の経緯は、平成12年8月5日若樹の会から、かるたの企画概要が提案されたことにより始まった。ついで神田郷土いろはかるた実行委員会から、「神田郷土いろはかるた」の募集が「公民館だより」により、地域おこし・地域再発見の一つとして呼びかけられた。応募総数579作品のうち45の作品が選考された。その後、かるたの絵札絵画作成を神田小・相模小の学校長に依頼し子どもたちにより絵札が描かれ、さらに絵画の専門家によって修正が行われ、読み札は、相模小学校の校長であった小瀬村春雄氏によって浄書された。平成13年1月13日に「第一回神田郷土いろはかるた」が神田小学校に於いて開催された。神奈川新聞、朝日新聞、タウンニュース、湘南ジャーナルで「世代交流の場・きずな結ぶかるた遊び」と取り上げられた。 (平 井) |
[田村の文化と歴史]
2015/12/09 18:38:37
[田村の文化と歴史]
2015/11/27 17:54:59
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公民館館長の田村の地を訪ねる 52【田村地誌】
明治政府は、新しい時代に即した様々な調査事業を行った。最も大規模な調査事業が明治8年の『皇國地誌』の編さんで皇國地誌編集例則にそって調査された。ところが、大正12年の関東大震災のため烏有に帰してしまった。神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会により県下に残存する『皇國地誌』関係資料の調査をしたところ約20パーセントが発見され「神奈川縣皇國地誌残稿上下巻」として昭和38年3月に刊行された。その、調査時に神田地区(田村・大神)は漏れてしまい日の目を見なかった。『大神村誌』については、草稿と写本が数冊あり、写本により数字などに異なる点が見られる。田村のものは、『相模國大住郡田村地誌』の表題があり。二冊ほどあることを確認している。『田村地誌には、明治14年12月2日に神奈川県の地誌掛の中島厳の検閲をうけ、当時の戸長の福島治兵衛以下23名の名が記されている。坂上田村麻呂のサイカチの樹の話や田村が近郷35村の親村で、田村組もしくは田村寄場と呼ばれたと云う記述がある。これらの記事は、『新編相模國風土記稿』には載せられていない。明治14年11月30日から三日間、田村の「松屋」において戸長、筆生と数名の議員により、聞き取り調査及び作成にあたったと記されている。 (平 井) |

