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地域の紹介
四之宮地区は市内の東縁を流れる相模川沿いで、前鳥神社を中心に栄えた地区でした。古代の相模国府域でもあります。無形文化財も多く、中でも人形浄瑠璃の前鳥座が大変有名です。
国道129号線が出来て大きく発展した地区ですが、県道44号の全通と相模縦貫道の開通は地区の発展をさらに進めると期待できます。
自治会活動・福祉活動も活発で地区の住民の生活援助に励んでいます。
また当地区には神奈川県の下水処理施設があり県民の生活環境の向上に役立っています。
国道129号線が出来て大きく発展した地区ですが、県道44号の全通と相模縦貫道の開通は地区の発展をさらに進めると期待できます。
自治会活動・福祉活動も活発で地区の住民の生活援助に励んでいます。
また当地区には神奈川県の下水処理施設があり県民の生活環境の向上に役立っています。
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[文化・歴史]
2017/02/28 10:29:39
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四之宮郷土史同好会から公民館だよりに記事提供をしていただいております「四之宮まめ知識」を年度ごとにまとめました。
平成27年度の分をご紹介します。 (画像の説明) 冬から春にかけて、大野の人達には忘れられないお団子があります。芋団子です。 冬の乾燥期にさつま芋の生を薄くスライスして天日でカリカリになるまで乾燥させます。乾燥したものを精米所に持ち込み粉に加工してもらいます。(芋粉) 芋粉にお湯を加えてよく練り、練り上がったものを一握りづつ片手の握りに成型します。 成型したものを蒸し器で蒸して完成です。砂糖等、甘味料は無添加でも甘さは十分です。 冷えてしまった芋団子は固くなるので、焼いていただきます。 |
[文化・歴史]
2017/02/28 10:29:29
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四之宮郷土史同好会から公民館だよりに記事提供をしていただいております「四之宮まめ知識」を年度ごとにまとめました。
平成26年度の分をご紹介します。 (画像の説明) 中原御殿の御林で最も広大な現在の総合公園と、その周辺一帯を伐採した後に明治38年に英国系資本の無煙火薬製造会社のアームストロング社が創設されました。会社は御林跡地の内38町歩を使い、残りは元の御林を守って来た人に払い下げられました。 |
[文化・歴史]
2017/02/28 10:29:20
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四之宮郷土史同好会から公民館だよりに記事提供をしていただいております「四之宮まめ知識」を年度ごとにまとめました。
平成25年度の分をご紹介します。 (画像の説明) 四之宮の土は太古の時代。主に相模川が、丹沢山地や山梨県の方から土や砂利とか、砂を運び積もった沖積土です。風によって吹き寄せられた所が高くなりました。吹き飛ばされたり水で流された所が低地になった砂丘地帯です。 その砂丘の水辺に近い高所に四之宮の人が住み始めました。 砂丘の厚みは、総合公園内で地下約91mの岩盤まで確認されていますが、途中では海の砂等が確認されたり、最深部では確認されていません。 低い所に主に相模川が運んだ土砂が溜り、そこが後に陥没や隆起を繰り返して出来た土地ではないかといわれています。 砂丘の高低差で顕著なのは平塚八幡宮と市役所の高低差や、日産車体入口と警察署入口、そして身近な所では、神明中学校とマツモトキヨシの店の所などが判り易いでしょう。 マツモトキヨシの店の所は、元「谷川の池」でした。 |
[文化・歴史]
2017/02/28 10:29:06
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四之宮郷土史同好会から公民館だよりに記事提供をしていただいております「四之宮まめ知識」を年度ごとにまとめました。
平成24年度の分をご紹介します。 (画像の説明) 都心と湘南を直線的に結ぶ 中原街道 は五反田を起点に県道2号線、その先県道45号線とされる物流の大動脈ですが、 中世以前から奥州方面にも通じる往還で、江戸時代に海沿いの東海道が整備されるまではこの道を通るしか無く、家康公も江戸入城に際してこの道を通っています。 直線・短距離で起伏も少ないなど物資輸送・急ぎの通行にも東海道の裏街道として良く使われました。 中原街道と呼ばれるようになったのは徳川幕府が行った整備の後となっていますが、幾つかあったニックネームのひとつに 御酢街道 との呼び名があります。 |
[文化・歴史]
2017/02/28 10:27:49
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四之宮郷土史同好会から公民館だよりに記事提供をしていただいております「四之宮まめ知識」を年度ごとにまとめました。
平成23年度の分をご紹介します。 (画像の説明) 昔 四之宮渡船場にて 徳川家康公中原御殿より 江戸への帰途 乗船して直たちまち艫の方に座す、 舟人は恐懼して 舳によりて舟を進む、家康公怪しみて 其の故を問う。 里人は 「君公を後へにすることは恐れ多き事なり」と答えて御感にあづかりしと、これより逆船の名起る。爾後 四之宮村にては渡船に用いる馬船と称する舟を舳先を角形に造りて明治四十年頃まで使用したりき、現 其舟なしと。 |





